昭和50年 2月1日 月次祭 入力者【明渡徳子】
②・④・⑦
いよいよ、おー、寒修行もあと1日という事になりました。それこそー、うー、んー、このお広間全体が生き生きとした、もうー、修行のるつぼに化してしまうかと思われるほどの、熱烈な寒中修行が毎日行われております。実は、あー、明日、明後日が寒の明けでありますけれども、日曜だと言うので、えー、昨日に、明日にしてあるのだそうです。あたくしは知りませんでした。
けれども明日は日曜ですから、たくさんな日頃でけない方達も、まあできることでございましょうが。んー、寒中に、んー、修行をする。色々と体得させて頂かれた事もあるだろう、体験をたくさん頂かれたことでもあろう。その稽古が、あー、実際の生活の上に、いわゆる生活の現場においてそれが、あー、行じられることになり、それがおかげに繋がっていかなければ稽古の値打ちがありません。
出来ておるようであり、分かっておるようであるけれども、それがいよいよ本番という事になると、もろくも崩れてしまうということであってはならんのです。やはり体験、えー、ね、それにはやはり本気でー、行の上に現していかなければいけません。ただ聞いた知ったと言うことではいけん。
②●今日あたくしは、午後の奉仕の時にこういうようなことを頂いた。その原因があり、また更にその原因があるというのです。その原因がある。また更に、その原因があるという事は、本当な事の上にももう一つ向こうに、本当な事があると言うことでございます。信心とは、いよいよその本当な事から本当な事を追求して行くのが信心だと思います。●
ですから、本当のおかげが潤うてくるのです。本当のおかげが頂けるようになるのです。例えて申しますと、誰でもお金の嫌いな者はありません。お金を貯めねばならん、儲からねばならんと思うて、始末倹約をしてね。それこそ出さねばならんとこにでも、できるだけなら出さんがよかというふうにして、まあ貯め上げていくという。
なるほどお金を貯めるのにはそういう言わば始末倹約もしなければ、貯まらないということも本当なのですね。けれどもね、それよりもっと本当な事があるのです。それはちょうどタライの水を向こうに押すような道理であります。タライの水を向こうへ押しますとね、押したはずだけれども帰ってくる方が多い、ね。
儲けようとか貯めようとかとは思わないけれどもね、もうただただ人が助かること。または楽になること、喜ばれること。そういうことに精進させて頂いておりますと、その喜びはこちらの方へ、倍になって3倍になって返ってくるのです。これは物でも財の面でも一切同じ道理なんですね。
これをね、貯めようと思わんでもです、いつの間に貯まったか分からんほどしに、しかも限りなく貯まって行く本当な生き方なのです。ところがお互いが人間がね、やっぱ我情我欲の塊でありますからね、向こうに押しよったら押しっぱなしになってしまやせんだろうかという、言うならば危惧の念が生まれてまいります。不安が伴いますね。
道理では分かっても、それを実行しない限り、決してそういう体験は生まれてまいりません。今日、午後の奉仕をさせて頂いております時に、西岡先生が改まってお礼のお届けに出てまいりました、ね。ほんとにご神縁を頂いて、えー、修行させて頂くようになりまして、もう4年か5年になりますでしょうか。
段々信心を分からせて頂いて、分かっただけではない。それは業の上に現されてまいりますから、この頃では特にこの寒中修行に入りましてこちらというものは、もう日々が一分一厘間違いのない御働きを、目の当たりに見、感じ、ね。そしてそこからありがたいものに触れておるというのです。
どうしてあたくしのようなものが、このようにありがたくなれるかと思うほどありがたくなれる。そして起きてくるその自分の周辺の事が、1つ1つが、ありがたいものに見え、なってくるということをです、今日は改めてその事のお礼のお届けがございました。お話を聞きながら、信心ちゃありがたいなと思いました。ね、どこからそのありがたいものが寄って来るのか、湧いてくるのか。
けれども、涙がこぼれるほどにありがたいという事は事実なんです。日々がね。いかに西岡先生が、教えを頂くだけではない、それを行の上にも現して修行しておるかと言うことが分かります。ちょうどそういうお取次ぎをさせて頂いておる後ろに、ある教会の先生が参拝しておられました。
しげしげとお参りになります。ほんとに信心のありがたいことも段々分かって追い出られる。ところがです、その方には生活がかかっておるのです。段々お話を頂きますと、ほんとに金光様の信心するが、どうしてそげな難儀なとこ通らんなんだろうかと思うような難儀な中を、しかも信心でー、通っておられる。奥さんも一緒に一所懸命の修行なさっておられる。
2人のお子さんがありますが、子供さんはそこが分かりません。今朝方からも家内が申します。子供がこんな事を言う。「お母さん僕達は毎日毎日こげなお漬物ばーっかり出たご飯食べんなんごたんならば、もう死んだほうがまし」笑い話のようですけれども、実に深刻ですね。金光様の先生でもさしてもらえば、それは色々金儲けの道はあるでしょう。
人間心使えば子供たちにそういう難儀をさせなくても良いでしょう。けれども日頃頂いておる信心を行の上に現し、生活の上に現して、言うならば神様の無限の働きを、自分のこの信心で、この生活の中からそれを現そうという意欲に燃えておられるのです。ね、あたくしはその西岡先生のお届けと、その続いてその先生のお届けを聞かせて頂きまして思いました、ね。
⑦●ほんとに例えば西岡先生が、ありがたいありがたい。もちろん行の上にね、お話も良く頂く、同時に行の上にも現す。ところが西岡先生の場合は、生活がかかっていないと言うことであります。奥さんがあり、子供があり、これからはまた言うなら、あー、布教にも出られるようなことになるだろう。そういう時に果たして今頂いておる信心が、生活の現場でね、言うならばお役に立つかどうかということが問題でございます●。
寒修行の間に皆さんが色々信心も分かり、体験も積まれましたね。それがお互いの生活の現場にね、いわゆる実践にそれが役に立たなければいけんのです。例えば剣道の稽古、剣道でも柔道でもそうですけれども、やはり寒修行と言うのがあるでしょう、ね。確かに段も取らして頂いた。言うならば、あー、剣道であるなら、剣さばきも鮮やかになった。柔道であるならば、技もなかなか上手くなったと。
けれどもそれがです、本当の言うならば実践に参加した時、果たしてその剣がどれだけ役に立つかと言う事はね、それこそ場を踏んだ者には勝ちません。体験を積んだ者には勝ちません。いよいよの時にやはり度胸がすわってない。今日もある方が、鳥栖から、あー、婚約者の方と2人で参って来た。それでもう2人で色々と信心をさせて頂く事を話して、その婚約者の方を時々は連れてお参りをする。大変良いお嬢さんです、ね。
⑦●そしてそのお嬢さんが、今日はあたくしにお伺いをされるのに「先生この人間の性格というものは変えられるものでしょうか」と。「どうしてですか」っちゅうと、「実はあたくしはもう、いよいよ本番になるとです、ものが出られん、言いよらん、言えないのです」ね。普通はたいてい分かってもおり、お話しておるようですけれども、いよいよ本番になって挨拶でもしなければならんということになると、お話がでけない。まあそういうふうに言われるわけです。
「しかしまあ女は、あんまり喋りすぎるよりかはもう言いきらんぐらいやったほうがよかですよ」っちあたくし。言うならばあなたが欠点と思うておる事は、実は長所ですよと。けれどもまた言わなければならない時には言わせて頂くのも、また場数を踏んで段々稽古をさせて頂いておると、私も大体がもう非常にお話は下手です。
もう挨拶なんかはしどろ、この頃から綾部さんが言われるのに「もう親先生挨拶なさる時には、もうよそで横ぞで聞いてはおられん。」てもうしどろもどろ。もうほんとにそうなんです。ところが事、信心の話になりますと、私が体験させて頂いておる事であると同時に、神様から頂いておることですから、こうして3時間でも5時間でも7時間でもお話がでけます。ありがたい。
しかもこの頃では5人10人よりかはもうここいっぱいにおられる方が話よかごつなってきた。やっぱ稽古です。本番になれば本番になるほど強いのです。それは、段々体験を積んだからだと言うわけですね。皆さんが稽古をなさると言うてもね、そのなさった稽古をです。生活の上にそれを現してね、そこでほんとにお役に立つか、ね。こうする事が本当だけれども、分かっておるのだけれども、ここは押すのが本当だけれども、手前の本当できゅっとこうやってしまう、ね。
これではいつまで経っても限りないおかげに繋がる事はできませんね。そこにはやはり度胸がいるのです。そこで、西岡先生じゃないですけれどもね、実際に言わば生活がかかっていない、ね。実際に難儀な場に直面していないと。日常平穏無事の時にこそです、私はしっかり信心の稽古をさせて頂かなければいけないと思います●。
どんなに素晴らしい例えば楽器を持っておりましても、ただ楽器を持っておるだけではいけんのですね。笛なら笛を持っておるだけではいけんのですね。どんなに素晴らしい合楽の信心を、皆さんが持っておられるだけではいかん、知っておるだけではいかんのです。それがやはり稽古に稽古を積まれて、自分でも自分の吹き鳴らすその笛の音に聞き取れるほどしのものを、皆さんが身に付けておいでなければいけません。
それには稽古がいるでしょう。④●さあ、今日はもう食べてしもうた。明日は食べるのが無いですよ、お父さん。ね。さあ明日の事が不安になる。あたしとあんたぐらいなら明日1日ぐらい断食ぐらいしようけれども、子供もおる親もおる。これは私自身の事です。修行中の事ですけれどもね。
それでもね、あたくしが今から思わせて頂くのに、そういう時に今日今晩のご飯、晩御飯までです。まあ頂けたと言う事がありがたいじゃないかと。さあ、もうこれはもうこの事にお礼を申し上げて、そして明日は明日と、もう安らいで心が明日に入っていけれるおかげを頂いておったと言うことが、やはり体験に体験を積んでおったから、そういう「そんならおまえどこか行って米ちょっと買ってきとかなじゃごて」というようなことをせんでもすんだと思うのです。
もう必ずです。もうほんとに必ず神様がね、塩がなければ塩をね、お米がないならお米をね。その代わり贅沢なものではありません。あたくしは先日もある方に申しましたね。とてもとてもほんとにこのご飯の時にこのたくあんがある。たくあんがあるだけでもあるという事はもう大変ありがたいことだよとね。●
④●あたくしども修行中に様々なとこを通らせて頂きましたがね。もうなんにも、おー、食べるものがございませんから、庭に作っておるニラが、その夏はもうことのほかたくさんできました。もう来る日も来る日もニラばかり。しかも、おー、砂糖やら卵とじやらじゃない。塩で煮てある。
勝彦が「甘いね。甘いね」と言うて食べよりました。なんにも、おー、おやつがありませんから、そこのご主人が、あー、サイダーの工場に勤めておられました。そこにお話に行くんです。そうすっと帰りにサッカリンですかね、ゼラチン?でしたでしょうか。( ? )の状袋に入れて頂いておりました。それでそのそれをお水を入れて、それを1粒入れて、甘い水を作って、それが子供達のおやつでした。
そういう中にです、言うならばなるほどね、美味しいものとか立派なものではないけれども、その日その日に言わばこちらが修行として受けて行けば、行けれる道を言うならば切り開かせて頂いて、最近ではまた、あのそれこそたくあんばかりでありがたい。もうどんなにたくさんあっても、この頃たくあんが一番美味しいようになる。
人間てのは面白いですね。どんなにおご馳走があっても、それを食べたくないぐらい。お金でもやっぱそうじゃないでしょうかね。もうまーだそこまではいっておらんですけれども、たくさんなお金があったらもうそのお金が、お金のありがたさと言う事が分からないくらいに、おかげが頂けれるもんだとあたしは思うですね。●
私は最近、4回ご飯を頂いてます。2食のところを4食です。私はあのご飯、小さいご飯です、茶碗ですあたくし。それに2杯ずつ頂くから4杯頂く事になるわけです。その4杯を4回に分けて頂いておるんです。朝の3時半にこちらへ出る前に頂きます。もうやっぱりたくあんばっかり。
それから晩休ませて頂く時にまた少し頂いて休みます。普通は普通のお昼と、夜と中に入るわけです。こういうような頂き方はどうだろう。おかげでこの頃こういう同じ量だけれども水を飲まんですむようになった。あたくし水をがぶがぶ飲まないでしょう。何がおかげになるやら分からない。こういう頂き方はどげなふうなもんじゃろうかっち言うちから、高橋さんにご飯のことを話しましたら、それはそれの方が自然でしょう。
(えてこう?)でもそげん3度3度つっちゃ食べんよらんですけれどもね。だから親先生のごたるふうに腹減った時に食べるとん方が、自然に近いでしょう。ほんにそういうことも言えるねと言うたことでございました。私は猿の真似をだからしよるわけです。しかしそれの方が自然に近い。
言うならばそれの方が、本当な頂き方だと言う事になるのですね。いよいよほんとから本当を追求してまいりますと、そう言う事にもなる、かねないですね。どうぞいよいよ、おー寒修行も、おー、明日で一通りは終わります。けれどもあたくしは今度の寒修行にあたくしがかけたと言うか、思うた事はです。本年は神様がおかげを下さろうと言う姿勢であるのですから、あたくしどもも本気で頂こうと言う姿勢を作れと言うのが、私が元旦に皆さんに聞いて頂いた通りでございます。
そこで幾人の人がその姿勢を作る、その言うならこの寒中修行にです。果たしてどうのような姿勢を持って向かわれるだろうか。もうこれが私がこの約1月あまりの寒修行にかけたことでございましたね。それは、これから堕落すればいざ知らずですね。こういう姿勢を持ってです、この1年の信心ができるならばです。神様はいよいよその人が願いもしなかった、夢にも思わなかったようなおかげの展開になるだろうと思います。
この人は口にはもうどうでも頂かんならん、おかげを受けねばならんと言いながらですね。お参りしようと思いよるばってん、なかなかねむうして参られん。(忙しして時間あれば?)こうと。言うならばいかに神様がおかげをやろう、姿勢を作れと言うても、そういう姿勢が崩れた姿勢で、おかげの受けられるはずはないと言うことを、こう思わせて頂いて、ほんとに残念に思うことがございます。
まだ寒は、いわゆるまだまだ続きましょうね。返って寒くなるでしょう。だからその言うなら季節は春の節になりましょうけれどもです。この寒中修行でやろうと思うてやれなかったこと。ないですか、ね。この寒中修行にはこれだけの事はと思うておったことが、できなかったところをです。私はまたあと1月をかけてでも、1つ、今年のおかげの受けられる姿勢を作り直そうと言う気になって頂きたいと思う事切でございます。
私も考えてみると足りなかった、ね。ですからその欠けておったところをです、寒中、寒修行が済んだ。でけなかったところをです、私はまたお詫びの印にです、この2月にかけたい、ね。そしていうなら神様が下さろうとするおかげのですね、水も漏らさぬ受け物を作らせて頂くことに願いをかけたいと思うております、ね。
明日で一応は終ります。けれどもほんと言うたら明後日までなんです。神様にね、例えば修行を負けて下さいという風な感じがするのですけれども、そこは皆さんの銘々の信心でです、1つ、欠けておったところの、今年は今申しますような訳でございますから、1つ本気で、ね。
1月2月の今年の始めの月々にね、姿勢を正させてもらうおかげを受けたいと思いますね。そしていよいよ本当な事、その原因があり、またさらにその原因があるのです、ね。飲み過ぎたから胃が痛い。それも確かにそれはその原因でありますけれども、更にもう1つその向日に原因があるということが信心なのです。そこが分かることなんですね。
食べ過ぎた飲み過ぎたからじゃないのです。あれがあげん言うたから、ああしたから自分がこんなに損をしたと、こげん言うけれどもね。それはね、1番手前の本当なことではありますけれども、それはちょうど貯めるためには、それこそ始末倹約。出さにゃんもんでも出さずして貯めていくという、貯めていくと言うことにおいては嘘ではないのですけれども、本当の貯め方というのは、ちょうどタライの水を向こうに押すような在り方をです。
体得させて頂いて、限りないおかげに繋がっていく。貯めようと思わんでも貯まってくるというようなおかげを頂く事が本当でありますように、いよいよより本当な事を身に付けさせて頂いて、それを行の上に現して、生活の現場の上においてですね。それをやはりもう、おー、ほんとに今日西岡先生とその○○先生のお届けを、のことでございますけれども、ほんとに例えば子供がです。
「もうこげん毎日毎日たくあんばっかり食べんなんごたんなら死んだほうがまし」と言うようなです。悲壮な例えば場面に立たせて頂きましても、揺るぐことなくそこんところをですね。そこんところをですね、ほんとに神様の働きを信じ、進めさせて頂いて乗り越えさせてもらえれる言うならば、度胸を作らしてもらう稽古、ね。
いよいよ実践に備えての信心。寒修行で覚えたのが言うならばね、えー、ちょうど稽古場で、剣道の道なら剣道の道をだから一生懸命稽古したのと同じです。それを実践に備えての時に、どのくらいにお役に立つかということをですね。分からせて頂き、またそこんところが分かった時に生まれてくるのが安心でありますね。
そこを乗り越えて頂かせて頂く体験こそが尊いのですね。どういう良い信心を頂いておっても頂いておるだけではいけませんね。それをいよいよ血に肉にさして頂く稽古は、お互いの生活の現場にあるのでございますからね。そこでいよいよ間違いない神様を頂かしてもらいたいと思います。
いよいよ本当から本当を追求していくことが信心なのですから。どうぞ。